本気でサイン

蔦屋書店の、棚一面のTRANGIT東アジア特集。こいつに出会ってしまったおかげで私はパスポートを作りに行くことになる。こども二人分も同時に作る。

申請書類上を高速で書きすすめ、署名欄にたどり着く。そのままパスポートに印字される唯一の箇所である。こんなんあったね、「サインの欄」。あなたのこと記入欄界の花形だと思っていつも接しているよ。さて苗字が変わった今回の更新、「林久美子」モブキャラのような名前になり少しコンプレックスを抱えている近頃の私はこのたび英語で記入すると決めている。自身のモブ化へのささやかな抵抗を試みる(せめておしゃれっぽく見えるように)。しかしローマ字表記でのサインの場合、偽装を防ぐ名目で筆記体を推奨する注意書きをみた。筆記体で名前を書いたことがない。しかし、不慣れな楷書で書いたフルネームを10年引っ下げるのはなんか嫌なのである。丁寧に、試し書き用の裏紙が大量に用意されているのを見つけた。私はテスト前の一夜漬けばりの気合いを入れて「ここで仕上げて見せる」と机に向かった。

一筆書いて気づく。サインほど書き慣れた感を演出しないといけないものはない。

私は、一人プレッシャーに苛まれた。サインってやつは客観的醜美問わず、当人にとってはナチュラルかつ洗練されている「いつもこうですけれど」という涼しい顔した文字でなくてはいけない。英語で書くと決めた手前、不慣れを見透かされるような力みのある歪なものではダメなんだ。それは楷書のモブ名より存在が恥ずかしい。大怪我なんだ。10年間も、背負うにはあまりにも重い。そして、しまった。今日は子どもの分も背負っている。親が書いた歪な筆記体の自分の名前を今後5年背負わすなんて、いたたまれなすぎる。しかし私は、ここで尻込みなどできないのである。こんなに集中したのはいつぶりだろうか。私は、 自分と娘二人の筆記体サインを「こなれた」感じにするために、1時間ほどかけ書き上げた。

サインは仕上がった。しかしパスポートはこの日申請できなかった。意気揚々と提出した住民票ではなく戸籍謄本が必要だったのである。不思議と清々しかった。自分の中では今日のミッションは達成したからだ。戸籍謄本を手に入れたら、納得いく筆記体のサインが印字されたパスポートを、作りに行くんだ。

とりあえずサイン記入済みのこの申請用紙だけは無くしてはなるまい。